4人の若者を乗せた車が峠の道を走っていた。
道は急カーブの連続で、少し気を抜けば事故を起こしてしまいそうだ。
すると突然、車の前に血まみれの女性が飛び出してきた。
驚いて運転席の若者は急ブレーキをかける。
車は女の脇を抜け、大きくスリップして停止した。
彼らは恐る恐る外を見たが・・・そこに今の女の姿はない。
さらに驚いたことに、車はちょうど崖に乗り出すような格好で止まっている。
あと少しブレーキを踏むのが遅ければ車は崖から転落していたであろう。
今の女はここで死んだ女性の霊で、自分たちのことを助けてくれたんだ・・・
そう考えた彼らは崖の方に向かい、「助けてくれてありがとうございます」と手を合わせて女性の成仏を祈る。
すると彼らの耳元で、低い女の呟き声が聞こえた。
「死ねばよかったのに」
類話
若い女性2人を乗せた車が山道を走っていた。
時刻はもう遅く、辺りはうっすらと暗くなり始めている。
運転席の女性はあまり運転に自信がないため、だんだん不安になってきた。
すると、それまで無言であった助手席の女性が突然「あ、そこ右だよ」と言った。
確かに道は右カーブ。
「次は左」
「その次は右」
彼女の言う通りに道は曲がっている。
「なんだ、あなたこの辺りの道詳しいんだ。それならそうと早く言ってよね」
「ごめんねー。あ、次は右だよ」
言われた通り彼女はハンドルを右にきった。
ところが!なんとその道は左カーブ。
とっさのブレーキが間に合いなんとか助かったものの、もう少しで車は崖下へと転落するところであった。
「危ないわね、いい加減なこと言わないでよ」
彼女が助手席の女性に向かって怒りをあらわにすると、
「・・・死ねばよかったのに」
助手席から低い男の呟き声が聞こえた。
彼女が驚いて見ると、助手席の女性はぐっすりと眠っていたという。
「助けてくれたのかと思った霊は、実は自分たちを殺そうとしていた」というこの話のプロットはなかなか恐ろしいものがありますが、
よく考えると霊が現れなければ車は勝手に崖から落ちていたということ。
実はこの幽霊、ただのマヌケなのかもしれません。
例話では若者たちは声の正体を「霊」であると決めつけます。
そのことに対しては、話者も聞き手も特に妙な感じは受けないかと思います。
ですが、もしこの話の若者たちが「きっと神様が助けてくれたんだ」と言っていたらどうでしょう。
「彼らはとある宗教団体の若者たちで・・・」のような前置きがないと、少しばかり違和感を覚えてしまうのではないでしょうか。
また、オチの「死ねばよかったのに」で「タヌキに化かされた」なんて説明を加えられたらどうでしょう。
これではせっかくの怖さも半減で、話が台無しになってしまうと思うのではないでしょうか。
しかし、もし江戸時代の人たちがこの話を聞いたならば、おそらくはそう解釈していたでしょう。
神様に助けてもらったと思ったら、じつはタヌキに化かされそうになってただけだった、などという風に。
つまり、私が何を言いたいかというと、現代人は怪異を説明する物語体系として「幽霊」しかもっていないということです。
昔の人たちは怪異を説明するために「神様」、「妖怪」、「幽霊」などを自由自在に使いこなすことが出来ました。
ですが、現代に生きる我々は「神様や妖怪(いわゆる伝統的なもの。私が肩入れしている「現代妖怪」の場合、
その正体のほとんどは幽霊です)の仕業」などと言われると胡散臭く感じてしまうため、
「助けてくれた良い幽霊かと思ったら、実はこちらを殺そうとしていた悪い幽霊であった」というように物語に起きる怪異を「幽霊」の中だけで完結させるしかないのです。
これが不幸なことなのかどうかは私にはわかりません。
とりあえず今言えることは、現代では多くの人が幽霊をある程度信じているのに対し、神様や妖怪は(一部の人を除くと)ほとんど相手にしていないということでしょう。
このような傾向が我々を映す鏡である都市伝説にもはっきりと表れているのです。